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「ヒトラーとナチ・ドイツ」ヒトラーはどのように権力を掴んだのか

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この本を読もうと思った理由

 私がこの本を読もうと思った理由は、ヒトラーとナチ・ドイツについて知りたかったからだ。ナチス(本書の様にナチなのか、一般的なナチスどちらが正解なのかもよく分からない)が第二次大戦で行ったホロコースト(ユダヤ人大虐殺)は今も語り継がれている。

犠牲者数ならスターリン、毛沢東が上

 だが、「スターリン」や「中国独裁の歴史」の記事でも示したように、犠牲者の「数だけ」比べれば、スターリンや毛沢東の失政の方が、ヒトラーよりも5倍から10倍近い犠牲者を出している。
・ヒトラー:ユダヤ人殺害数600万人
・スターリン:独ソ戦争の失策等で民間人も含めた犠牲者2500万人
・毛沢東:大躍進政策と文化大革命の失策で犠牲者5500万人以上

何が批判の対象となるのか

 何が批判の対象となるのか、自国民か他国民か、故意か過失か、そして根本的な疑問として、「なぜ」ナチドイツは国民の支持を得ることができたのか?それらを知りたいと思ったからである。

ヒトラーとナチ・ドイツ (石田 勇治、2015年6月、講談社現代新書)

本書の内容

 本書では、ナチ党の成り立ちと台頭、ヒトラーの独裁への過程と政権掌握後の政策やホロコーストに至る経緯等について書かれている。どちらかといえば内政事情に主眼を置いている。そのため、第二次世界大戦での他国との戦いについては、さわり程度しか書かれていない。独ソ戦等の具体的な内容を知りたいのであれば、別の本を読む必要がある。

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ヒトラーの政治参加とナチ党の誕生

 アドルフ・ヒトラー(1889年~1945年、56歳没)は、悪い意味であまりにも有名な人物である。ナチスドイツを率いて、ホロコーストというユダヤ人大虐殺を行った。ヒトラー率いるナチ党(政党)は、1933年に政権を握り、その独裁は第二次世界大戦終了の1945年まで12年間続いた。

 ヒトラーは元々政治家だったわけではない。第一次世界大戦(1914年~1918年)には、25歳で軍人として従軍している。第一次世界大戦後に、軍部の戦後処理に伴い政治の世界に足を踏み入れることになる。ここで初めて、ドイツ労働者党という政治組織に入党することになる。

1920年 ナチ党の誕生

 ヒトラーはドイツ労働者党の党内で頭角を現し、1920年党名を「国民社会主義ドイツ労働者党」に改める。これが、略称で「ナチ党」となるのである。ナチ党が誕生した瞬間である。ここから政権掌握まで、約13年の歳月をかけることになる。この時既に、党の目標として「ユダヤ人から公民権を剥奪すること」が挙げられている。

1921年 ナチ党の掌握

 翌年の1921年には、早くもナチ党の実権を握っている。当初のナチ党は、ヒトラー以外にも実力者がおり多数決による意思決定も行われていた。しかし、ヒトラーはこの中で独裁権を手中にすることになる。また、党内ではヒトラーを絶対の指導者とする風潮が確立していく。

ナチ党の台頭

 ナチ党は、1923年にミュンヘン一揆という国家転覆を狙ったクーデターを起こしている。しかし、これは失敗に終わり大きく勢力を失うことになる。だが、ヒトラーとナチ党はここからの大復活を遂げ政権掌握までこぎつけるのである。

1928年 初めての国政選挙

 1928年、ナチ党は初めての国政選挙に打って出る。しかし、結果は振るわず、得票率2.8%、12名の国会議員を通しただけの野党末端の弱小政党であった。ここでナチ党は、弁士養成学校を設立し、話の達者な議員候補を養成していく。その成果もあってか、1930年に行われた選挙では、ナチ党は得票率18.3%、107名の国会議員を擁する国会第二党にまで躍進した。

1932年 国会第一党に

 そして、1932年の国会選挙でついにナチ党は、国会第一党の座を獲得することになる。得票率37.3%、608議席のうち230議席をナチ党が占めるようになった。初めての国政選挙から、わずか4年での大躍進である。ナチ党は、なぜここまで国民の支持を得ることができたのだろうか。

ヒトラーが支持された当時の背景

 なぜヒトラー(ナチ党)が多くの国民の支持を得ることができたのか。それを理解するためには、当時のドイツの状況を知る必要がある。ドイツは、第一次世界大戦の敗戦国となり莫大な賠償金の支払いや、軍備拡大の制約などかなり抑圧された状況となっていた。(ヴェルサイユ条約)また、当時はドイツという国は存在せず、ヴァイマル共和国となっていた。

 ヴァイマル共和国は、周辺諸国に対して弱腰であり、政権に対する国民の不満は溜まっていた。ヒトラーはこの状況を上手く利用したのである。強いドイツの復活を目指して、現政権を国民の不満のはけ口とし国民の支持を得たのである。この国民の不満を上手く利用する辺り、建国当時の毛沢東の戦略と同じである。時系列的には、毛沢東がヒトラーを真似たのだろうか。

1933年 ヒトラー政権の誕生

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 1932年の選挙で国政第一党となったナチ党であったが、実際の実績は何もなく1933年にはその人気に陰りが出始めていた。また、最大議席を確保していたが、総議席に占める割合は1/3強であり、ナチ党だけで国を動かすことは出来ない状態であった。

ヒルデンブルク大統領の後押し

 ヒトラー政権誕生には、当時のヴァイマル共和国の大統領ヒルデンブルクの影響が大きかった。この頃のドイツは、大統領制であり大統領はかなりの権限を持っていた。このヒルデンブルクが強いドイツの復活を望んでおり、1933年1月ヒトラーを首相に任命したのである。

ヒトラーを利用するつもりだった

 当初、ヒルデンブルク大統領とその周辺は、ヒトラーを首相にしても形だけのお飾りにし、自分たちの政権安定のための材料としようとしていた。しかし、結果はヒトラーの独裁を許すことになり、その目論見は失敗するのである。

ここまでまとめ

 1920年のナチ党誕生から、1933年のヒトラー首相の任命まで約13年の年月を要している。この頃のナチ党は、政敵には突撃隊などの過激な行動も行っていたが、一般市民やユダヤ人に対する弾圧などは行っていなかった。(ただし、ユダヤ人を国力回復のために排除すべき存在とは認識していた)まだ、選挙制度も機能していた。

 しかし、ヒトラーが首相になった1933年以降は、ナチ党の独裁体制がどんどん過激化していき、ホロコースト、軍備拡張、1939年のポーランド侵攻(第二次世界大戦勃発)へと突き進むことになる。

1933年 ナチ体制の確立

 1933年、首相に任命されてからヒトラーはナチ党による独裁の基盤固めを行う。難癖をつけて政敵を追い落とし、その中でナチ党に有利な状況で選挙を行い、単独過半数の獲得を達成する。また、当時絶対的な権力を持っていたヒルデンブルク大統領に近づき、自分たちに都合のイイ大統領命令を発行してもらうように取り計らった。そして、ヒトラーが独裁を確固たるものとするために最も手に入れたかったものそれが「授権法」であった。

授権法の獲得

 授権法は、正確には「全権委任法」という。名称からしてどのようなモノかは想像がつくだろう。これは、内閣=ヒトラーに立法権を与え、好きなように法律を作れるという無茶苦茶な法律であった。しかも、憲法違反であったとしても効力を発揮するという、いわば無敵のカードなのである。

 ヒトラーはこれを手中に収めるため、手段を選ばずに政敵を陥れ無理やり国会の採決でこれを成立させたのである。この瞬間、まさにドイツは終わった・・・とう感じであった。ここからが多くの人が想像する、ナチスドイツによる独裁体制が行われていくのである。

たった半年で独裁国家に

 1933年1月にヒトラー首相が誕生した。そして3月に授権法の採択、7月には国内に残っている政党はナチ党だけになり、たった半年でナチ党=ヒトラーによる独裁体制が確固たるものとなってしまったのである。

1934年 「ヒトラー総統」の誕生

 1934年8月にヒルデンブルク大統領が亡くなった。本来であれば次期大統領を選出する必要があったが、ここでも無敵の「授権法」が効力を発揮し、大統領亡きあとは、首相と大統領の権限を併せ持つ「ヒトラー総統」を誕生させる筋書きになっていた。もはや、ドイツ国内では、だれにも止められない独裁体制が不動のものとなっていた。

強いドイツを取り戻す

 ヒトラーの最終目標は、以前の強いドイツを取り戻すことである。第一次大戦で敗北し、多くの賠償金を課せられ落ちぶれたドイツを復権させることである。足かせとなっているのは、ヴェルサイユ条約でありこれを平気で破るようなこともしていく。1933年10月ドイツは国際連盟を脱退した。

1938年 軍拡とオーストリア併合

 1936年には、堂々と軍拡を開始しイギリスとも同盟を結んだりと、強引ではあったが結果も出していた。そのため、国民からは絶大な人気を得ていた。もう弱いドイツは過去の話となっていた。そして、1938年ドイツはオーストリアに進行しこれを合併した。特に、抵抗もなくすんなりと事は進んだ。

1939年 第二次世界大戦勃発

 イギリス、フランスはこれまでヒトラーのやることを多めに見ていた。だが、ついに黙認出来ないことが起こった。1939年9月、ドイツはポーランドに進行したのである。イギリスとフランスはドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発した。ヒトラーの独裁政権が誕生してから6年後のことである。

ホロコーストへ至る道

 ホロコーストとは、ナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺を指す。ナチ時代のホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は約560万人と記載されている。

反ユダヤ主義

 ヒトラーは、人種的な反ユダヤ主義であった。宗教的なユダヤ人が嫌いなのではなく、ユダヤ人という人種そのものが嫌いだったということだ。だが、ヒトラーの人生で、ユダヤ人に苦しめられたとか、直接的な恨みなどはなかった。決定打となったのは、ロシア革命だといわれている。ヒトラーは、ロシア革命をユダヤ人の陰謀ととらえていた節がある。また、第一次世界大戦におけるドイツの敗北をユダヤ人の裏切りによるものだと考えていた。

ニュルンベルク人種法

 1935年、ドイツでニュルンベルク人種法が制定される。この法律は、ユダヤ人から公民権を剥奪し、非ユダヤ人との婚姻を禁じた。しかし、この段階ではまだヒトラーにユダヤ人を虐殺する意思はなかった。ドイツからの国外追放政策を推し進めていた。

周辺諸国も助けない

 ドイツにおいて危険思想の独裁政権が誕生した、そしてユダヤ人があからさまな迫害を受けている。この時、周辺諸国はどのような対応を取ったのか。結論としては、アメリカ、イギリス、フランス、スイスなど周辺諸国は誰も救いの手を差し伸べなかった。むしろ、他国でもユダヤ人は厄介者扱いされていたのである。

 ヒトラーは、「どこか我が国のユダヤ人を受け入れる国があるなら、豪華客船に乗せてお送りしよう」とまで言ったぐらいである。戦後、ナチスを批判している国々はこの時の自分たちの対応をどう考えているのだろうか。

ドイツ国民の反応は?

 では、ドイツ国内ではユダヤ人迫害に対して避難の声は上がらなかったのか。結論は、上がらなかった。もちろん、独裁体制下で反対の声も挙げられないというのもあったかもしれないが、それ以上にユダヤ人が国外追放されることで、ドイツ国民自身が直接的に利益を得ていたのである。

ドイツ人ファースト

 具体的には、ユダヤ人が住んでいた家を無償で貰うことが出来た、ユダヤ人の財産を安くで手に入れた。ユダヤ人が就いていた職業ポストがドイツ人に与えられた等である。このような、恩恵があったため国内でもユダヤ人迫害に対して、非難の声は上がらなかったとされている。ヒトラーは徹底して「ドイツ人ファースト」だったのだ。なので、不平の声は上がらなかった。

30万人のユダヤ人がドイツを去る

 結果的に、1939年までに30万人のユダヤ人がドイツを去ることになった。1933年にはドイツ国内には50万人のユダヤ人が居たので約半数以上が国外退去したことになる。

ホロコーストの実行

 第二次世界大戦の勃発は、ホロコースト実施の要因となった。なぜなら、ドイツが周辺地域を占領すると、そこには必ずユダヤ人がいたからだ。国内のユダヤ人だけでなく、占領先のユダヤ人も抱え込むことになった。ドイツが最初に進行したポーランドには、250万人のユダヤ人が暮していた。

マダガスカルへの移住計画

 マダガスカルといえば、アフリカの東海上にある島である。なぜいきなりマダガスカル?となるのだが、1940年破竹の勢いのドイツはついにフランスのパリを陥落させる。マダガスカルは、当時フランス領だったのである。そこで、ヒトラーは対処に困っていたユダヤ人320万人をマダガスカル島へ移住させる計画を立てたのである。

 しかし、(ドイツにとって)ユダヤ人問題が一挙に解決すると思われたこの策も失敗に終わる。なぜなら、ドイツからマダガスカルに行くには海路なのだが、イギリスと交戦中のドイツには制海権が無かったのである。

ホロコーストの決断

 こうして行き場を失ったユダヤ人を抑留するため「ゲットー」と呼ばれる施設が各地で造られるようになった。1941年以降、戦争の長期化が確実となり、さらにユダヤ人の扱いに困るようになる。そして、ヒトラーはついにユダヤ人のホロコースト(大量殺戮)を決定するのである。言い方は非常に悪いが、扱いきれなくなったユダヤ人を殺処分することにしたのである。

絶滅収容所の建設

 ホロコーストの決定に伴い、ユダヤ人の絶滅収容所が建設された。もっとも知名度があるのは「アウシュビッツ」あり、多くの人が知っていると思う。これ以外にも5か所の収容所が建設された。当初の殺害には、一酸化炭素が用いられていた。その後、青酸ガスなども使われている。こうして、次々とユダヤ人が殺されていくのである。

まとめ

 独裁者としてのヒトラーだが、強いドイツを取り戻すという目標は、国民にも一定は支持されていた。第一次世界大戦での敗北と、重い賠償金の支払いがドイツ国内をよどんだ霧の様に覆っていたのだろう。そこに颯爽と現れその鬱屈とした空気を一変させそうな、「コイツならやってくれるかも」という期待が、ヒトラー支持につながったのだと思う。

ヒトラーの最後

 ヒトラーの最後は、自殺で終わる。敗戦が濃厚となった1944年以降もホロコーストは継続された。なぜ、ヒトラーはそこまでユダヤ人絶滅にこだわったのか。ヒトラーにとって、第二次世界大戦はいつしか「ユダヤ人との戦争」となっていたのである。第一次世界大戦からドイツを苦しめているのは、ユダヤ人だとして疑わなかったのである。

 しかし、ヒトラー、スターリン、毛沢東。独裁者として上手くやりおおせた人物は一人もいない。やはり、権力というのは人を狂わせるのだろうか。もしくは、この3人が失敗の好例なだけなのだろうか。

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