この本を読もうと思った理由
私がこの本を読もうと思った理由は、冬が近づきお風呂で読む本を探していたからだ。頭を空っぽにして気楽に読める本ということで小説を読むことに。で、どうせ小説を読むなら有名所を、ということで三島由紀夫を選択した。三島由紀夫は、過去に「金閣寺」を読んだことがあるが、ほとんど忘れてしまっている。
豊饒の海(一)春の雪 (三島由紀夫、2020年10月、新潮文庫)
純文学とは
この本を読むに当たり「純文学」という言葉を思い出した。理系の私にとって文学は対極に位置するものでまったく知識もないのでネットで調べてみると、
純文学とは、大衆小説に対して「娯楽性」よりも「芸術性」に重きを置いている小説
とある。イマイチよくわからない。線引きが難しいがそのあたりは考えないようにしよう。三島由紀夫も純文学作家ということになっている。
解釈に困る
この本は、1965年(昭和40年)頃に執筆されている。今から約60年前である。本書に限らず、こういう現代ものではない小説への解釈はどうすればよいのか悩む。当然、筆者も含めた当時の人の価値観や思想も現在とは大きく異なるわけである。
現代の感覚で評価するのか、昔の感覚を加味して評価するのか分からない。そもそも小説の評価ポイントも分からない。(ストーリーなのか文章の表現力なのか)特に本書は、現代人の感覚からすれば、ただ単に下半身が緩い人たちの話になってしまう。
私的解釈のあらすじ
時は大正2年頃。主人公は、邸内にボート遊びができるお池を持つほどの金持ち侯爵の一人息子のボンボンでプライドが鬼高。幼馴染の年上お姉さまに事あるごとに子供扱いされており、それが我慢ならなかった。なんとか、この幼馴染を見返してやろうと考え、「へへん、俺ってば親父に女遊びを教えてもらって、男になったぜ(童貞捨てたぜ)」と、大ウソの手紙を幼馴染に出してしまう。
しかし、手紙を出した後に大後悔時代がやって来て焦ったボンボンは、幼馴染の付き人のババアに、「俺からの手紙が届いたら幼馴染には渡さずに、速攻で焼き捨ててくれ。絶対だぞ!」と依頼。ババア承知仕る。ボンボン九死に一生を得る。
しかし、実は手紙はババアの裏切りにより幼馴染に読まれていたことが後日発覚。さらには、手紙の内容が嘘であることもバレてしまう。。。ボンボンは「クソ恥ずかしくて」合わせる顔無く幼馴染からの連絡をガン無視する日々が続く。
そうこうしているうちに、ひょんなことから皇族が幼馴染を見初めて嫁に欲しいというご要望。二人の関係を知る両親がボンボンに、「幼馴染を嫁にやってもいいのか?相手は皇族だから、いったん決まってしまうと取り返しがつかない。今ならまだ間に合うぞ」と確認するもプライドの高いボンボンは、「あんな女、私は一切興味ありません。お好きにどうぞ」と強がる。そして、幼馴染と皇族の結婚が決定する。
それを聞いたボンボンは、「他の男のモノ(婚約者)になった幼馴染」に異常な執着心を見せ始める。”お前のものは俺のモノ”的ジャイアン思考で、ババアを脅して幼馴染と密会させる。チョメチョメしまくりでついに幼馴染が妊娠してしまう。このことを両家の親が知ることに・・・ボンボンは男としての責任を取れるのか。
感想
上記のような内容を非常に壮大で優雅な言葉で綴ったのが、この小説である。確かに言葉は美しい、しかし内容は下衆そのものである。後先を何も考えずに行動するボンボンには、「火垂るの墓」の清太臭がする。幼馴染もボンボンが好きだから、求めに応じてしまうのが悲しいところ。
ただ、ストーリーとしては面白い。下衆い内容をこれでもか、というぐらい優雅に書いている、密会のアリバイ作りなども盛り込まれており芸も細かい。こういう行き過ぎた所が“純文学”のゆえんなのだろうか。「ちょっとやりすぎかな・・・」とか読者の事を考えず、ひたすらに作者の思いをぶつけて表現していくのだろう。たぶん。
