「昭和陸軍全史1」満州事変、その目的は何だったのか
この本を読もうと思った理由
私がこの本を読もうと思った理由は、日本が太平洋戦争へ突き進むまでの当時の状況を知りたかったからである。太平洋戦争を扱った本は多いが、それ以前の「満州事変、盧溝橋事件、支那事変(日中戦争)」については、その時代背景や当時の世界状況、日本の立ち位置などを私はほとんど知らない。この部分の知識を埋めたいと思った。
日本人にとっては、太平洋戦争(第二次世界大戦)の悲惨な結果のインパクトが強い。そのため、日中戦争に関しても、「え、日本と中国って戦争していたの?」という人も多いだろう。私自身も日中戦争の詳細については知らなかった。
昭和陸軍全史 1 満州事変(川田 稔、2014年7月、講談社現代新書)
日本は絶対的被害者なのか
毎年8月の終戦の時期になると、原爆の悲惨さを訴えるイベントが開催される。“世界で唯一の被爆国”の名のもと、戦争の悲惨さを訴える活動が活発化する。しかし、日本は一方的な被害者なのだろうか。答えは否である。この記事で紹介する満州事変は明らかな侵略行為である。
当時の日本が満州にちょっかいを出さなければ、それ以降の支那事変(日中戦争)や太平洋戦争は無かったかもしれない。だが日本が何もしなければ平和であったかというとそうでもない。当時は世界中で列強諸国が猛威を振るっていた。外部へ活路を見出さなければ、東南アジア諸国同様、日本が植民地化される可能性もあった。そのような難しい世界情勢の中、日本が突き進んだ道を振り返ってみる。
満州事変とは
満州事変とは、陸軍が行った満州(中国北東部)への侵攻行為及びその後の満州国の建国である。当然、国際問題となり日本は世界から孤立⇒泥沼の戦争⇒敗戦へと突き進んでいく。そういう点では、満州事変がすべてのきっかけ(起点)となっている。時代的には1931年(昭和6年)~1933年(昭和8年)の出来事である。だたし、その火種はもっと以前からくすぶっていた。
満州事変は日本の総意で行われたわけではない。一部の陸軍将校により独断で行われた軍事行動である。政府や天皇は不拡大の方針で事態の鎮静化を図っていた。しかし、日本政府は陸軍を制御できず、後始末に失敗し結局陸軍に引っ張られる形で満州事変に巻き込まれていく。
満州とは
満州とは現在の中国北東部である。正確にここと説明するのは難しい。満州、満蒙(満州と蒙古)と言われたりして言葉の表現も曖昧である。この記事でも、満州=満蒙と思ってもらいたい。万里の長城より北側の地域である。後に満州国という言葉も出てくるが、満州に作った国と思ってもらえればよい。
満州事変における二人の主人公
満州事変を語るうえで欠かせないのが、本記事の二人の主人公である。その二人とは、永田鉄山(ながた てつざん)と石原莞爾(いしわら かんじ)である。満州事変は主にこの二人の連携によって引き起こされている。永田は陸軍中央で国内を、石原は関東軍で現地(中国)で任務を実行した。
当時の情勢について
私自身、本書を読む過程で色々と調べたのだが、同時の国際情勢(特に中国、満州方面における)や思惑、位置づけを知っておくと非常に理解が進む。そこで、まずは予備知識が必要となるような前提条件を説明する。
【予備知識①】日露戦争後の満州
1905年(明治38年)、日露戦争に勝利した日本は、ロシアから清国(中国)の一部である満州の租借地および鉄道(満州鉄道=満鉄)を引き継いでいた。そのため、満州に対しては国際的に正当な権利を有していた。特に満州鉄道に対しては日本はかなり重要視していた。そこへ、中国の近代国家への革命が進み、満州の権利をめぐって日本と中国の緊張は高まっていく。
【予備知識②】関東軍と関東州
本書を読んでいると、しきりと「関東軍」という言葉が出て来る。知識の無かった私は、関東軍とは、日本国内の関西、関東の関東という認識で会った。そのため関東軍とは、東京(関東)に本部を置く日本軍のことだと思っていた。しかし、それは大間違いで関東軍の「関東とは」関東州の「関東」のことである。
関東州とは
「関東州」とは、日露戦争に勝利した日本がロシアから引き継いだ租借地のことである。租借地(そしゃくち)とは、ある国が条約で一定期間、他国に貸し与えた土地のこと。ここでは、ある国=清国(中国)が、他国=ロシアに貸し与えた土地となる。つまり、清国がロシアに貸していた土地を、日露戦争に勝った日本がロシアから引き継いだということになる。当時租借地は、特別なモノではなく英仏なども“租界”と呼ばれる租借地を中国に持っていた。
関東州の具体的な場所は、現在の中国遼寧省、遼東半島の南端の一部(大連、旅順地域)である。よって関東軍の本拠地は、日本国内ではなく中国の関東州に存在した。関東軍はここで関東州と満州鉄道の守備、保全にあたっていた。
【予備知識③】中国での革命
このような日中関係の中、中国では辛亥革命が起こり清国が亡ぶことになる。孫文による中国統一への動きが加速していくことになる。中国はこの後、孫文亡き後、蒋介石と毛沢東が争い、勝利した毛沢東が第二次世界大戦後の1949年に「中華人民共和国」を樹立し現代にいたる。敗れた蒋介石は台湾に逃れ、「中華民国」(台湾)を名乗ることになる。日中戦争までは蒋介石が中国政府トップとして日本と交渉を行うことになる。
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【予備知識④】朝鮮半島は日本の領土だった
この時代の朝鮮半島は、日本の正当な領土であった。私としてはこの事実を知らなかったので非常に驚いた。朝鮮半島ということなので、現在の北朝鮮から大韓民国(韓国)までのすべてが日本の領土であった。この結果、日本は直接中国と国境を接していたことになる。
1910年(明治43年)に、大韓帝国を併合するとの条約が結ばれ、日本が太平洋戦争で敗北する1945年まで、朝鮮半島は日本の領土(統治下)におかれていた。これは、イギリスやアメリカなどの西洋列強も認めていた。

【序章】張作霖爆殺事件の背景
1928年(昭和3年)、中国の要人である張作霖が乗っている列車ごと爆殺される事件が起こった。首謀者は、関東軍の河本大作高級参謀の独断である。この事件をきっかけに、日中関係は悪化していく。以下、その時代の背景と日本と中国の思惑や立ち位置を書いていく。
日本と中国、それぞれの思惑
中国では、1912年の中華民国成立後、まだまだ国内は安定せず内乱状態であった。そんな中、1925年には革命派の孫文が広州(中国の一番南)に、広東国民政府を樹立した。この政府は、蒋介石を軍総司令とし「中国の統一と半植民地からの脱却」を目指し、北へ北へと軍を動かし各地で勝利していた。これは国民革命軍による「北伐」と呼ばれる。
満蒙への中国軍進出への危惧
一方、日本は日露戦争後、北方の満蒙を実効支配していた。そこに南から国民革命軍が北伐して来ることに対して、自分たちの権益が損なわれるのではないかと危機感を感じていた。そこで北京を実質支配している張作霖を支援し満蒙における日本の権益を守りたいという思惑があった。
日本国内でも、「中国国内は、中国人の判断によるべき」としていたが、万里の長城を超えて満蒙へ進出し日本の利権が侵されるなら断固とした措置を取るべきと決めていたのである。このような状況に対して、米英は静観の体制を取っていた。1914年以降、日本の外交努力と米英協調路線により、日本と米英の関係は良好であった。
張作霖の暗殺
このような状況において日本政府は張作霖を保護するため、満州への撤退を促した。張作霖もこれに同意し、満州へ撤退するために列車に乗り込み満州を目指すのだが、その途中で関東軍により爆殺されてしまう。事件の首謀者は関東軍の河本大作である。この人物は、その後大した罰則も受けずに戦後まで生き残っている。
関東軍の動機としては、満蒙は日本が自ら支配すべきであり、張作霖はすでに目障りだったから処分したというのである。しかも、関東軍はこれを中国の国民革命軍の仕業と公表したのだが嘘はバレバレであった。
裏目に出た張作霖殺害
張作霖亡き後は、息子の張学良が後を継いだ。張学良は、父親が日本軍に殺されたことを知っていたので、蒋介石と手を組むことにした。その結果、中国側の結束を高めることになり、蒋介石による国民政府による中国統一が成立することになる。関東軍のやったことは、完全に裏目に出てしまった。

陸軍内部の疾患
当時、日本の陸軍は内部に疾患(不平不満)を抱えていた。それが派閥である。陸軍では明治維新以降、未だに長州だ薩摩だの派閥争いが続いていたのである。そして1931年(昭和6年)当時は、“宇垣派”と呼ばれる派閥が陸軍大臣、参謀総長等の陸軍のトップ人事を独占していた。当然、これらの人事に不満を持つ分子もあった。それが“一夕会(いっせきかい)”である。
一夕会の結成
このような派閥による人事独占に対して、派閥外の軍人は不満を持っていた。その中の一部が、打倒長州派閥、陸軍トップの刷新を目標に動き出すことになる。それが一夕会と呼ばれる集団で、結成は1929年(昭和4年)となる。
主要ポストの掌握
主要メンバーには、永田鉄山、石原莞爾をはじめ、東条英機、板垣征四郎、武藤章、田中新一など、後に日本陸軍のかじ取りを行っていく昭和陸軍を代表するメンバーが揃っていた。そして、1931年(昭和6年)までには、陸軍大臣、参謀総長は無理であったがそれ以外の主要部局については、一夕会のメンバーがポストを独占することになる。
【はじまり】柳条湖事件
1931年(昭和6年)9月18日、ついに満州事変の発端となる「柳条湖事件」が勃発する。これがすべての始まりであった。ここから1945年(昭和20年)8月15日の終戦までの14年間、日本はゴリゴリの軍国主義、戦争継続の時代を歩むことになる。
自作自演の爆破事件
1931年(昭和6年)9月18日、日本が権益を持つ南満州鉄道の線路が爆破される。関東軍は直ちに、中国軍の仕業と発表し事態鎮圧を名目に軍を動かし中国軍に攻撃を加えている。しかし、この爆破は関東軍の自作自演であり、軍隊を動かしたのも陸軍中央(本国)の命令ではなく関東軍の独断であった。
満州自体が中国の土地であり、自作自演の爆破で有無を言わさず軍を動かし攻撃を加えるとかもう無茶苦茶である。明らかな侵略行為であるが、当時の関東軍はそれを平然とやってのけたのである。事件の首謀者は、石原莞爾と板垣征四郎であった。
国内の不拡大方針、現地の拡大路線
柳条湖事件を受けて、日本国内では若槻内閣、陸軍大臣、天皇などトップの方針は「事態の不拡大」であった。しかし、関東軍はこれらの命令をことごとく無視して、満州で縦横無尽に暴れることになる。また、当時日本の国土であった韓国からも韓国軍を無断で動かし、中国領土内に侵攻させている。
大戦末期には、「天皇陛下万歳」といって多くの日本人が散っていったが、この頃は天皇の言葉などガン無視状態のイケイケドンドンである。結局、国内は関東軍の命令無視に対して、事後承認という形で後手後手に回ることになる。
【不拡大路線】若槻内閣の奮闘
9月に柳条湖事件が起こってから、12月11日までの約3ヶ月間、当時の若槻内閣は本当にあの手この手を尽くして、南陸軍大臣と共に事態の不拡大に努めていた。この間、関東軍人事の更迭もちらつかせて、関東軍の現地での進出を諦めさせたりもしていた。一方、一夕会は、現地の関東軍の石原莞爾を国内の軍中央の永田鉄山が支援するという形で抵抗する。そして、事態の収束まであと一歩という時、突然若槻内閣は総辞職することになってしまう。何があったのか・・・
突然の若槻内閣総辞職
獅子身中の虫である、関東軍をもう少しで抑え込める一歩手前で若槻内閣は自壊してしまう。その原因となったのは、安達謙蔵内務大臣である。当時の国内はまだ政党政治(現代と同じ、政治家が主体とする国政運営)が機能していた。そして、当時の日本は民政党と政友会という2大政党が順番に政権を担っていた。
若槻内閣及び安達内務大臣は民政党に属していたのだが、この安達がいきなり政友会との連立内閣を提案する。安達が連立内閣を提案した動機は様々だが、若槻首相の説得にも頑として応じなかった。当然ではあるが、一夕会からの働き掛けがあったのではないかという憶測もある。
たった一人の造反者のために
当時の内閣制度は現在と異なり、首相が大臣を個別に更迭することが出来なかった。よって造反者が出て内閣がまとまらない場合は、反対する大臣が自分から辞任するか、内閣総辞職かの2択しか選択肢が無かったのである。安達は自分で辞職することを拒み、結局若槻内閣は総辞職することになるのである。
安達謙蔵の末路
安達謙蔵は、当然ではあるが後に民政党を除名される。自ら政党を立ち上げるも、結局振るわずにそのまま消えていくことになる。結果論だが、この時の若槻内閣の総辞職が、日本の大きなターニングポイントになり、関東軍は力を取り戻すことになる。
この後、五・一五事件を経て、日本の政党政治は終わりを告げ陸軍が主導する軍閥政治、軍国主義の道をひた走ることになる。たった一人の政治家がゴネただけで、その代償はあまりにも大きかったのである。
犬養内閣の発足と陸軍首脳の刷新
若槻内閣総辞職を受けて、1931年(昭和6年)12月に政友会が内閣を発足させることになる。首相となったのは、五・一五事件で有名な犬養毅である。この時に、荒木貞夫陸軍大臣をはじめ、参謀総長等の陸軍要職が刷新されるのであるが、それらは永田鉄山、小畑敏四郎、山下奉文(マレーの虎)等、すべて一夕会のメンバーであった。
ここでついに、一夕会が陸軍大臣を含め陸軍全体を掌握することになる。事態不拡大派であった宇垣一派は、完全にその力を失うことになる。その結果、いわゆるゴリゴリの「昭和陸軍」という体制が出来上がることになった。
なぜ犬養毅はこの人選を行ったのか
当然の疑問として、なぜ犬養毅はこの危険分子である一夕会の荒木貞夫を陸軍大臣に採用したのか?というのがある。当初、犬養毅は前陸軍大臣の南陸相をそのまま継続させる予定であった。しかしここでも、事前に一夕会の根回しが既に行われており、荒木貞夫を採用せざるを得ない状況であった。永田鉄山は、既に一歩先に手を打っていた。
満州国建国
一夕会の荒木陸軍大臣は、1931年(昭和6年)12月早速関東軍の要請に応じて、兵力の追加派遣を承認する。この後、関東軍はあれよあれよと満州各地を占領していくことになる。そして、ついに1932年(昭和7年)3月1日に満州国建国宣言が発せられる。
この満州国を世界の各国がどれほど認めていたかは分からないが、事実として日本が戦争で敗北する1945年まで国家として存在することになる。多くの日本人も移り住み、大戦末期のソ連軍の参戦で多くの民間人の犠牲者を出したのもこの満州国である。
たった半年での建国
きっかけとなった柳条湖事件が1931年(昭和6年)9月18日、満州国建国宣言が1932年(昭和7年)3月1日である。たった半年ほどの、ひと冬で関東軍いや、世界からすれば日本は、中国領土内に独自の国家を勝手に作ったことになる。
五・一五事件、犬養首相の暗殺
若槻内閣の後を引き継いだ犬養内閣も若槻内閣同様満州国に対して、事態収束路線を取ることとなる。犬養毅は、関東軍の暴走を止めるため天皇にも働きかけて、将校の免職策すら採用しようとしていた。また、犬養内閣は国際的協調の配慮から、満州国を正式に承認しなかった。
しかし、当然そのような動きは陸軍からの反感を買うことになる。そして、1932年(昭和7年)5月15日に、海軍青年将校や陸軍士官候補生が総理公邸に闖入し暗殺される。なぜここで海軍?と思うが、濱口内閣が結んだロンドン海軍軍縮条約に対しての不満があり、犬養からすれば完全なとばっちりである。
犬養毅の死と政党政治の終焉
犬養毅の死後、海軍出身の斎藤内閣が発足する。これにより、日本の政党政治の時代が終わりを告げる。今後は軍人が総理となり日本を統率していくようになる。そして、斎藤内閣は日本として正式に満州国の建国を承認することになる。
斎藤内閣発足の裏では、永田ら一夕会の猛烈な働きかけがあった。永田らはこれ以上政党内閣が継続されるなら、「陸軍はどうなるか分からない」などと暗に陸軍のクーデターも
チラつかせ、政党内閣の排除に努めることになる。
国際連盟からの脱退
満州国の建国は、当然のことながら世界で承認されなかった。その結果、日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟を脱退することになる。奇しくも同年10月には、ヒトラー率いるナチスドイツも国際連盟を脱退することになる。世界各地で、戦争への緊張が高まっていく中、1941年(昭和16年)12月の真珠湾攻撃までには、まだ9年弱の歳月を要することになる。
【決着】満州事変の終焉
国際連盟脱退後も、関東軍の中国侵攻は止まらず各地で小競り合いが発生することになる。そして、1933年(昭和8年)5月に中国側と「塘沽(タンクー)停戦協定」が結ばれることで、1931年(昭和6年)9月の柳条湖事件に端を発した、満州事変は終焉を迎えることになる。
満州事変とは、期間にすれば僅か2年にも満たない出来事である。しかし、このたった2年の間に日本の政治が大きく変わり、日本は陸軍主導の軍国主義へと変貌を遂げる。そして、日中戦争、太平洋戦争、敗戦へとひた走ることになる。
満州事変の流れ
満州事変の流れを簡単にまとめる。
・1931年(昭和6年)9月、柳条湖事件と関東軍の中国出兵
・若槻内閣と陸軍中央の連携による事態不拡大路線
・一夕会の暗躍
・若槻内閣の崩壊と陸軍トップの刷新
・1932年(昭和7年)3月、満州国の建国
・犬養内閣の発足、五・一五事件による政党政治の終焉
・軍閥政治と満州国の承認
・1933年(昭和8年)3月、国際連盟脱退
・5月に中国側と塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれ満州事変終結
永田鉄山と石原莞爾の思想(満州事変の動機)
日本は、いや関東軍は、いや一夕会の永田鉄山と石原莞爾という2人は、中国に何を求めていたのか。何が2人を満州事変に駆り立てたのか。本書ではそのことにも触れられているので、当時永田と石原の目に映っていた国際情勢、日本国の立場を紹介する。いわば、満州事変に至る動機である。
【国家総力戦】永田鉄山の考え

永田鉄山の考えの根底になっているものは、本人が実体験した第一次世界大戦である。永田は、当時ドイツに駐在しており第一次世界大戦をその肌で感じることになる。そして、永田が出した結論は、「来るべき次期大戦は、国家の総力戦になる」というものである。
すべては総力戦のために
永田が第一次世界大戦で感じたことは、次に起こる世界大戦は、次の2つである。
①人力ではなく航空機、戦車などの機械兵器が主となる戦争になること
②兵器の工業生産力、人的物質的資源を総動員した国家の総力戦になること
そしてこの結果、短期の局地戦を行った後の停戦講和による終戦は困難となること。どちらかの国が焦土と化すまで徹底的な戦争が行われることを想定していた。この点、太平洋戦争の結果を見ても、永田の洞察力がいかに正しいかが分かる。
国力が勝敗を決める
一方を徹底的に破壊しつくすまで終わらない戦争となれば、長期戦が予想される。そうなれば当然、その勝敗は各国の資源力(国力)に左右される。その点からいえば国土が狭く、資源の無い日本はどう考えても不利になる。永田も当然この点を客観的に分析しており「日本の国防資源は極めて貧弱である」と憂慮していた。
資源を満蒙に求める
となれば、日本はどこか国外に資源を求める必要がある。永田はその狙いを満蒙(中国)に定めたのである。永田が満州事変を起こしたのもこういった自身の分析からの帰結である。日本にも朝鮮半島にも近くて豊富な資源がある場所。それが満州だったのである。
軍事生産力の分析
永田はまた、欧米の列強各国と日本の国力差についても冷静に分析していた。第一次世界大戦終結時の各国の機械兵器の保有量は以下の様になる。
【航空機保有量】
・フランス:3200機
・イギリス:2000機
・ドイツ:2600機
・日本:100機
【戦車保有量】
・アメリカ:1000輛
・フランス:1500輛
・ソ連:500輛
・日本:40輛
【鋼材生産力】
・日本:87万トン
・アメリカ:2840万トン(日本の32倍)
・イギリス:495万トン(日本の6倍)
「あ、圧倒的じゃないか・・・」と言いたくなるような惨状である。日本がズバ抜けて貧弱であることは明白であった。さらに、戦争となれば貿易等による資源の輸入は困難となるため、日本独自の“自給自足”が不可欠だと考えていた。そして、自給自足のための資源を満蒙に求めたことは前述のとおりである。
次期大戦不可避論
日本の政治家は、国際調和のより次期大戦は回避可能と考えていた。それに対して、永田は次期大戦は、「絶対に不可避である」との結論を出していた。その理由として、ドイツを上げている。ドイツは第一次世界大戦で敗北したが、それゆえに将来への不満が再度ドイツから噴出すると考えていた。さらに、国際連盟の力ではこれらの戦争を未然に防ぐ力は無いと分析していた。
永田鉄山の最後
おそるべき永田の分析力である。冷静かつ的確に日本と列強各国の状況を見抜いており、永田の予想通りに(ドイツを発端として)第二次世界大戦は勃発することになる。ではなぜ、永田は太平洋戦争を回避しなかったのか?と思われる人もいるだろう。答えは「やりたくても、できなかった」である。
永田鉄山は満州事変終焉の2年後の1935年(昭和10年)8月、分裂した陸軍内部の対立派閥のメンバーの凶刃に倒れることになる。よって、太平洋戦争開戦時には故人となっていた。よく言われることだが永田が存命していれば、日本の運命も変わっていたかもしれない。
【最終戦争論】石原莞爾の考え
石原莞爾は、どのような考え方を持っていたのだろうか。石原莞爾は、ドイツ留学経験はあるものの永田鉄山より年下であったため、第一次世界大戦時は陸軍大学の学生であり第一次世界大戦を直接見聞していない。しかし、石原は「日米最終決戦」が起こり、勝者により世界に統一平和が起こると確信していた。永田よりは、かなり極論に寄った考え方である。
アメリカとの国力差は歴然の中、アメリカとの最終決戦を行うのがヨーロッパ列強各国ではなく、日本というのは石原の分析力を疑う部分はあるが石原は次の様に考えていた。
・来る最終決戦では航空戦力による戦いとなる
・そのためには、科学技術力の優劣が勝敗を決する
・科学技術力の点では、日本は十分アメリカに対抗できる
資源を満蒙に求めるのは同じ
石原も永田と同じく、日本の資源力の乏しさは痛感している。そして、それを満蒙に求めることでは考え方は永田と一致していた。永田と石原が満州事変で協力したのも、このように両者の向かうべき方向性が合致していたからである。
石原莞爾の最後
結論を述べると、石原莞爾は戦後1949年(昭和23)まで生き延びる。東京裁判で死刑となることもなく最後は病没である。ただし満州事変以降、陸軍内部での衝突により太平洋戦争時には、予備役(補欠軍人みたいなもの)に追いやられその手腕を発揮することは無かった。
石原莞爾は日中戦争の拡大を望んでいなかった。むしろ懸命に止める側にまわっていた。しかし、拡大派の武藤章、田中新一らとの争いに敗れ日本は泥沼の日中戦争に突入していく。そのあたりは「昭和陸軍全史2」で詳しく述べることにする。
消える二人の主人公
永田と石原という、二人の主人公は、太平洋戦争でその力を発揮することなく、退場を余儀なくされることになる。
どうすればよかったのか
世界の列強各国が力をつける中、取り残された日本の状況を知れば知るほど焦りが出るのも分からなくはない。そのためには、多少の無茶(満蒙確保)も必要と考える人物が出てきてもおかしくない。だが、自国強化のために国際的に孤立していく道は最善であったのかという疑問も残る。
勝てば官軍だったのか
しかし、これはあくまで太平洋戦争敗北という結果を知ってからの意見である。織田信長の桶狭間も同じである。あれは、勝ったから称えられているものの、「生き抜くためには、 こちらから」という根底にある考えは同じである。ただ、勝ったか負けたかの違い。
もし、満州国立国からその後の日中戦争で日本が勝利をおさめ、そこで列強各国とうまく調整が取れていれば、満州事変についても非難されることなく、現在とは大きく違った世界線が存在したかもしれない。
