【悟りの思考】目に見えない恩恵を受け取っているという考え
情けは人の為ならず(自分の為)
人間、年齢を重ねるにつれ色々なことを経験し学んでいく。大げさに言うと悟りを開くようになる。私が悟ったことを書いてみる。
以前、こちらの記事でも紹介したが、「情けは人の為ならず」という言葉は、大いに誤解されている。正しい意味は、「情けは人の為ではない(ならず)、まわりまわって自分自身の為になる」である。では、どういった形で我々自身に良いこと(見返り)が帰って来るのだろうか。
見返りには2種類ある
私は、見返りには2種類あると考えている。
①ゼロからプラスへの見返り(目に見える)
②マイナスからゼロへの見返り(目に見えない)
①の具体例としては、宝くじに当たる、ラッキー(と認識できること)が起こるなどである。こういったプラス要素の見返りは、目に見えて分かりやすく、なにより実感できる。
②の具体例としては、病気を回避した、事故を回避したなどである。こういった本来マイナスであったものがゼロ(ノーダメージ)になることである。このような、マイナス要素の帳消しは、目に見えず実感もない。
既に恩恵を受けているという考え
人間だれしも、①のような実感できる派手な見返りを期待するものである。しかし、私は、②のような「マイナス回避」の恩恵を数多く受けていると理解するようにしている。自分や家族が今、平穏無事でいられるのは実は多くの「マイナス回避」を享受した“結果”であるとの解釈である。恩恵(見返り)は“既にもらっている”という考えである。
見返りの還元率は誰にもわからない
見返り、見返りと書くと、あたかもそれが確約されているように受け取れそうだが、誰もそんなことは約束していない。人間が勝手に妄想し、見返りがあるだろうと考えているだけである。最近の生き方は、コスパ、タイパなどの効率ばかり重視されている。
・見返りの還元率は何%ですか
・見返りはいつ実行されますか
・見返りの内容を選択できますか
「与えるのが先」という絶対条件
妄想に問うても、ネットで調べても答えはどこにもない。なので、私が述べた①の見返りや②の見返りも私の希望的願望である。しかし、人間そうやってどこかで納得し、前向きに生きていくのが一番幸せなのだと思う。自分は助けられている、守られていると思うと気が楽になる。
そして一番重要なことは、見返りを求めるには、まず自分が先に他人に何かをしなければならないということである。順番は与えるのが先である。「与えよ、さらば与えられん」の精神である。ここを忘れてはいけない。※本当は、「求めよ、さらば与えられん」(新約聖書より)
